趣味の写真とのんきなお喋り
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CP+2010のメインテーマは「ひろがる、あなたのフォトライフ」だつた。

では、今後われわれの「フォトライフ」なるものは、果たして広がるのだらうか。


われわれの「フォトライフ」、写真生活、といふよりも生活の中の写真の位置もしくは地位は、下降こそすれ上昇することはないのではないか。
今後、生活の中の写真は、極めて私的なものになつてゆくだらう。
より正確には、今後、生活の中の写真は間違ひなく、「他者を排除した限りにおいてのみ成立するもの」になつてゆくだらう。
すべてがすべてではないが、しかし、この傾向は緩和されることなく、強化されてゆくのではあるまいか。

昨今の「肖像権」をめぐる言説ひとつを見ても分かるやうに、今われわれの多くは自分が写真に撮られることを好まなくなつてきてゐる。
巷間よく言はれるやうにストリート・スナップがやりにくくなつたのは、他人を勝手に写すことが「失礼にあたる」との自主規制が働くまでに、「私を撮るな」といふ声が大きく強くなつたからである。





「私を撮るな」といふ声を発する人は、撮られることに対してある種の不安や気味の悪さを覚えるやうだ。
その不安や気味の悪さは、写真に撮られた自分の姿が何に使はれるのか分らないところから来てゐるやうに思はれる。
街頭で取材中のテレビカメラを避ける人は、自分の姿が不特定多数の人の目に、自分の手では制御できないかたちで触れることを嫌がるのだらう。
しかし、個人が街頭で写真を撮つたとしても、撮られた側はやはり嫌がるだらう。
その写真が不特定多数の目に触れるか、撮影者個人の領域にとどまるかに関らず、人は嫌がる。
前者の可能性が皆無であつても、嫌がる人は嫌がる。
自分の写真が何に使われるか、分らないからだ。

これはおそらくは「漠然とした不安」とでも言ふべき何かであつて、肖像権の侵害などといふ法理論的なものではあるまい。
つまり、今われわれの多くが写真に撮られることを嫌がるのは、撮つた相手を信用してゐないからだ。
確かにさうだ。
かういふ場合、撮つた人間は赤の他人なのだもの、無条件に信用しろと言ふ方が無理である。





だが、それだけではあるまい。
事態はもつと深刻なのではないかといふ気が、私はするのである。

ただ、今回の記事では、その理由に関する考察は避けることにする。
いくつかの事実を指摘して、そこから予想される今後について少々述べることで、ここでは筆を置くことにしたい。





CP+にかこつければ、それはかういふことだ。

今回のCP+でオリンパスは、マイクロ一眼ことマイクロフォーサーズ・カメラE-PL1を前面に打ち出し、展示もトークショーもほぼすべてをE-PL1に費やした。
他の製品にはほとんど触れなかつたと言つてもよい。
オリンパスのE-PL1(もしくはPENシリーズ)以外の商品といへば、コンデジのミュー・シリーズであり、そしてデジタル一眼レフカメラおよびレンズのEシステム、すなはちフォーサーズである。
昨年からオリンパスはPENシリーズを大々的に売り出し、そしてそれがヒット商品となつたのは周知の事実だが(日経MJの2009年ヒット商品番付にE-P1が入つてゐる)、その一方でフォーサーズ規格のカメラとレンズの新製品発表が昨春以降途絶えてゐるのも事実である。
問題となるのは、後者の事実のとらへ方である。





現時点でオリンパスからは、フォーサーズ規格のカメラ・レンズの新製品に関して、特に何かが公表されたわけではない。
しかし、この「何もない」といふことを、今後も生産・販売してゆくか否かといふことに置き換へて考へる人がゐる。
しかも多数。
どういふことかと言ふと、新製品に関する発表がないイコール「やる気がない」、もしくは「撤退を考へてゐるのではないか」、あるいは「ユーザーの切捨て」と捉へる人が多いのだ(さういふ態度表明を行なつたブログ等にリンクを張りたいのはやまやまなのだが、しかし、遠慮しておく)。
私のやうに、期待して待つてゐればいいではないかと言つてゐるのは少数派と決め付けられさうな勢ひなのである。

この態度が私には理解できなかつた。
商品Aを売り出すといふこと、すなはち商品Bの生産中止・市場撤退といふのは、いささか飛躍がありはしないだらうか。
かういふ発想は、私の言葉では、よく言つて「単なる考へすぎ」、意地悪な言ひ方をすれば「下司の勘ぐり」となるのだが、どうも世間は、オリンパスがフォーサーズから撤退し(もしくは事業を縮小し)、E-3の後継機種は出す気もなく、そしてますます売れ筋のマイクロフォーサーズに注力して、フォーサーズ・ユーザーを切捨ててでも利益とシェア確保に走るのではといふ懸念であふれかへつてゐる……、といふのはもちろんオーバーなのだが、しかし、そのやうな考への持ち主をネットで探すのは、残念なことに容易なのである。





私は、仮にオリンパスがフォーサーズのカメラ・レンズの生産をやめたとしたら、それはそれで仕方がないと考へる者である。
むろんフォーサーズ規格のカメラとレンズはそれなりに所有してゐるので、万が一故障しても、製造中止後七年以上経つたら修理もしてもらへなくなるんだなあと思ふと少々寂しくはなるだらうが、しかし、それで肝心の写真が撮れなくなるわけではないので、他社製カメラの購入をすみやかに考へるだらう(恐らくはニコン製のカメラを買ふだらう)。
つまり、フォーサーズだらうが何だらうが、商品なんていつかは消えるだらうし、その消え方に自分は関与し得ないだらうから、それで必要以上に大きな声を出すことはすまいと私は考へてゐるのである。
要するに騒ぎたくないのだ。

そんな私からすれば、オリンパスへの怨嗟の声は全く理解出来ない。
なぜ、あの人たちはあんな言ひ方をするのだらう。
そんなことよりも、アートフィルターを使つて、面白い写真を撮らうよ。
フォトシネマを作つて、YouTubeにアップしてみるのもきつと面白いよ。





と訴へたかつたのだが、しかし、どうやらそれは無駄らしいといふことが、迂闊な私にも分つてきた。
それはどういふことかといふと、いつの頃からかは分らないが、しかし、われわれの中には「自分にとつて確実に『快である』もの以外は、根本的に不快なものだとみなして疑つてかかる」といふ風潮が根を下ろしてしまつたかに見えるからだ。
しかも強固に。
だから、自分の待ち望む商品に関する新情報が無ければ(情報の無流通といふ自分にとつて決して快ではない状態)、それは自分にとつては「不快な事態」であり、不快な事態に対しては不快感の表明をもつて応へ、もつてその不快感を「状態」そのもののせいに帰するといふ矛盾撞着が平然と起こることになる。

それは別にオリンパスへの一部(いや多数?)の人々の態度に限らない。
ことあるたびに、われわれは、さうした疑ひを(あへて言ふ、それは不毛な疑ひだ)繰り返してゐないだらうか。
相手の発言には何か裏があるのではないか、この情報は肝心な何かを隠すために発信されたのではないかと、あれもこれも根拠もなくまづ疑つてかかることが多くなつてはゐないだらうか。





もちろん私は、批判精神やメディア・リテラシーやを軽んずる気はない。
むしろ人一倍それらの重要性を理解し、訴へてゐるものであるとの自負の念さへある。
しかし、私が言ふのは、まづ疑ひありきといふ昨今の風潮への違和感であつて、権力への懐疑がどうしたかうしたといふ問題とは次元を異にするものだ。

この疑念こそが「私を撮るな」といふ主張を強力に支へる感覚の正体である。
私にはさう思へてならない。
よほど親しい間柄の人間の言動以外は、まづは疑ふ。
かういふ風潮の続く限り、新情報を発信しないメーカーは常にユーザー軽視の烙印を押されるだらうし、赤の他人の撮影行為にはいつも懐疑か不快か憤怒の眼差しが向けられることになるだらう。
それは論理的帰結では決してないだけに、極めて厄介だ。





CP+で各メーカーが新製品や新技術を謳ひ上げたとしても、そんなことでわれわれの「フォトライフ」は広がりはしないだらう。
CP+その他で何がどのやうに主張されようとも、受け手の側が疑心暗鬼に陥つてゐる以上、写真表現はその幅を狭め、発表の場を失ひ、そしてその表現の力は衰弱してゆくことだらう。
何しろ人の精神そのものが萎縮してゆくのだから。
私にはさう思はれてならない。

皮肉を付加へれば、「フォトライフ」の代りに「カメラライフ」は広がるかも知れない。
しかし、精神不在の「カメラライフ」など、畢竟、素人が素人のためにする素人レベルのスペック比較に堕するだらう。





そんなことがおぼろげながらも私の頭に浮かんできてしまつた時、(こともあらうに)CP+の会場で私はある衝撃的な言葉を耳にしたのである。
場所はペンタックス・ブース。
言葉の主は浅田政志。
昨年、写真集「浅田家」をもつて木村伊兵衛賞を受賞した若手写真家である。
「浅田家」は特異な写真集で、要は浅田本人とその(本物の)家族が、語弊を承知で言へばコスプレをしてゐる写真集である。
写真集の表紙にも採用された消防隊の写真は(浅田本人の言によれば)、三重県内の某消防署に浅田自身が掛合つて(1時間も粘つたさうな)、本物の消防車と消防服とを借りて消防署内で撮影したものである(したがつて撮影は本物の消防署員が大勢見物する中で行はれた)。

彼が言ふには、この写真集は題名どほり、家族の絆がテーマである。
撮影のために家族でシチュエーションを考へ、役割を考へ、役を作りこんでゆく。
その過程で、家族がひとつになつてゆく。
写真集「浅田家」はその記録である。





その彼が言つたのだ。
『今、日本では写真をめぐる状況がよくない方向に向つてゐるやうに思ひます。
写真を撮られることと撮ることへの忌避感のやうなものが感じられるんです。
でも、自分の姿が写真になつて、そして残つてゆくのつて、嬉しいぢやあないですか。
だから、ぼくは、自分の家族と写真を作るし、そして、撮られて嬉しい写真をもつともつといつぱい撮つて、写真ていいものなんだなあといふ思ひを、もつともつと広げてゆきたいと思つてゐるんです』

この通りではないにせよ、主旨は間違つてゐないと私は思ふ。
彼のこの発言に私の涙腺はゆるんだ。





「浅田家」は、誰かの言ふとほり、幸福な家族を演じてゐるのではなく、幸福な家族が演じてゐるのである。
家族みんなで家族の記念日を作ること。
それが自分たちにとつての写真撮影なのだと、浅田は言つた。
ぼんやりとではあるが、私は写真の未来はこの方向にあるべきなのではないかと思つた。
なぜなのかと問はれると、たちまち返答に窮するのだけれども。
しかし、肖像権だのメーカーの責務だのよりは、何倍も信用できるし、且つ大事なことのやうに思はれてならない。

今でも。
そして、今後も。




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無題
6枚目の「傘オパ?」…かなり気になります。(爆)
asdpc URL 2010/04/07(Wed)17:49:23 編集
Re:無題
このコメント読んだ時には手を打つて喜びました(笑)。さすがです。

傘オパ。
韓国のライティング機材メーカーの出品でしたよ。
【2010/04/08 05:42】
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支配人プロフィール
HN:
NOMi Koichi
年齢:
51
性別:
男性
誕生日:
1965/07/09
趣味:
写真、音楽、文学
自己紹介:
Koichi NOMi と申します
東京在住の写真好きです

女の子ポートレイトを中心に
街やらライブやら
色んなものを写して
表現して楽しんでゐます
皆さま
どうぞよろしくお願ひ致します
(*^▽^*)/

フランスの写真家
ギイ・ブルダンが大好きです
(Guy Bourdin, 1928-1991)
Guy Bourdin: A fetish for fashion
明快な細部と曖昧な物語性
大胆な構図と緻密な状況設定
そして色
どこをとつても素晴しい!

私も
どうせ写真を撮るなら
彼のやうな作品が撮りたいな
とは思ふのですが
ちよつと道のりは遠いかな
(苦笑)

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