趣味の写真とのんきなお喋り
[235]  [234]  [233]  [232]  [231]  [230]  [229]  [228]  [227]  [226]  [225
 音楽について少し考へてみたい。

 といふ時、われわれが真つ先に考へることは、音楽を演奏することだらうか、それとも聴くことだらうか。おそらく、後者だらう。演奏する人口よりも聴く側の人口の方が多いのだから、この文章冒頭の一行から音楽の聴き方についての何かを連想することは自然な流れである。だからといふわけではないのだが、ここでも音楽を享受する側の問題について考へをめぐらすことにしたい。音楽を聴くといふことの在り方の変遷の中にこそ、大きな問題が含まれてゐると、私は考へてゐるからだ。

 ところで、われわれは何のために音楽を聴くのか。予備手続きとして、そんな問ひを立ててみる。予想される答は「感動するため」といふものだらう。だが、ここでわれわれは、はたと気付く。「感動」を定義することは難しいといふことに。たとへば、あなたにお気に入りの音楽があり、それを聴くとあなたはいつもえもいはれぬ感情の振幅を味はつてゐる、とする。あなたの感じるさういふ気分を、一般的には「感動」と言つて差支へないのだらうが、しかし、CDを(テープでもレコードでも音楽ファイルでも何でもいいのだが)かけて、それを耳にして気持ちがたかぶつて、といふ一連の流れにおいて体験することの中に、自己陶酔といふ要素がないとは言ひ切れないだらう。犬に餌を与へる時にいつもベルの音を聞かせると、いつしかその犬はベルの音を聞いただけでよだれを流して餌の皿をぢつと待つやうになるといふ。大好きなアーティストの大好きな曲を聴いて感動の涙を流すといふ行為は、一見高尚なやうで、どことなくパブロフの実験のやうな単純な条件反射を連想させてしまふ。

 などと書くと、犬の餌と音楽といふ芸術とを混同するなといふお叱りの声が聞えてきさうだから、ここで別の方向に目を向けてみたい。

 今年(二〇〇六年)はモーツァルトの生誕二百五十周年にあたり、彼の生誕の地ザルツブルグや終焉の地ウィーンはもとより、ヨーロッパを中心に世界の主だつた都市では彼の音楽作品が数多く上演されてゐる。コンサート会場だけではなく、各国のテレビ局は特集番組を放映し、音楽雑誌は特集記事を載せ、当然のことながら、関連CDやDVDが大量に発売されてゐる。

 音楽を聴くといふことに絞つて考へると、重要なのは、コンサート会場での実演よりも、むしろCDやDVDなどのメディアを通じての音楽の聴取である。といふのも、クラシック音楽のコンサート会場といふのは、実は案外小さいのである。たとへば、世界最高峰のオペラハウスであるウィーン国立歌劇場は座席が千七百人分しかなく(別に立見席が五百七十人分)、最大でも二千三百人ほどしか入場できないのである。二千人もゐれば多いではないかと思ふかもしれないが、ポピュラー音楽だと二千といふ数字は大したものではなくなつてしまふ。たとへば、今春、来日したザ・ローリング・ストーンズといふロックバンドは、一晩で東京ドームに四万五千人の聴衆を集めた。そして、その規模のコンサートを日本国内だけで六公演もこなして帰つていつた。こと集客に関する限り、オペラといふクラシック音楽の世界で最も大規模なイベントでさへも、ポピュラー音楽の側から見れば、せいぜいが中規模のものでしかない。

 だから、多くの人がモーツァルトに親しむにはCDやDVDがいちばん適してゐることになるのだが、ここでちよつと考へてほしい、モーツァルトが生きてゐた頃はどうであつたのかと。

 すぐに了解できるとほり、二百年前にはCDなんてなかつた。CDどころか、音楽の再生装置そのものが存在してゐなかつた。では、そんな環境で音楽はどのやうに聴かれてゐたのかといふと、当然ながら人は演奏される機会に聴いたのである。どんなに気に入つた曲でも、聴きたければ、演奏される機会を待つか、あるいは依頼するしかなかつた。何か楽器が弾ければ自分で演奏したらうが、これだと自分の演奏を聴くしかなくなり、自分の腕前に納得がゆかない場合は不満ばかりがたまつてしまふので、話は別だ。また、王侯貴族なら、いつでも好きに聴けたらうと思ふかもしれないが、たとへオーケストラの家来がゐたとしても、実演である以上は時間や場所の制約はやはりあつた。つまり、聴きたい音楽を聴きたい時に自由に聴くといふのは、技術の発展とそれを受け容れ普及させる社会の仕組みが整つて、はじめて可能になつたことなのである。

 だから、人は聴ける機会を逃さずに聴いた。一七八六年、チェコのプラハでモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』が上演された時は(ウィーンでの初演が成功しなかつたのとは反対に)、親しみやすい音楽を聴くために、人々は争つて劇場に足を運んだといふ(モーツァルトはその時の様子を嬉しさうに手紙に書いてゐる)。

 とはいへ、演奏はすべて実演である。実演であるがゆえに、毎回毎回の演奏には微妙な差異が生じる。ついうつかりのミスが発生しないとは言へないし、演奏者の気分や体調によつて表現に違ひが生れることもあれば、今夜は別の演奏者の出演する晩だつたからだといふ事情も、演奏には影響するだらう。そして、その日の観客・聴衆の違ひは、作品の上演にもつと大きな影響を与へてゐただらう。作品に理解のある好意的な観客と、さうではない観客とでは、劇場の雰囲気はまるつきり異なるものになるからだ。

 このへんの事情は現代でもさうは変らない。つまり、実際に上演される音楽(ライヴ演奏)は、同じ作品であつても(そして同じ出演者であつても)、日ごと回ごとに異なるものなのだ。音楽とは、それが上演される特定の場所と特定の時の中にしか成立しない、一期一会のものだつたのだ。

 しかし、今、私は「だつたのだ」と書いた。「である」とは書かなかつた。これには理由がある。それは、ある時期(第二次大戦後)以降の人間にとつて、音楽を聴くといふ行為は、レコード、テープ、CDを繰返し聴くこととほとんど同義になつてしまつたからだ。むろん私も例外ではないし、また、かうしたことが悪いことであるわけでもない。しかし、CDなどでモーツァルトを聴くといふことが、当のモーツァルト自身にしてみれば、思ひもよらない、目を丸くするしかないやうな行為ないし現象であるといふことに、人はもう少し注意を払つた方がよいと私は考へる。

 なぜかといへば、CDではまつたく同じ演奏を繰返し聴くことが出来るからだ。そんなこと当り前ぢやないかと言はれさうだが、実演の音楽に「まつたく同じ演奏の繰返し」などあり得ないことを考へれば、いつもいつもまつたく同じ演奏が繰返されることがどれほど不自然なことであるかは、すぐに気が付くことだらう。ちなみに私が一九八二年の十月、日本で初めてCDが発売された日に購入したCDは、まだ購入時と同じ音が出る。それ以前から所有してゐたLPレコードだつて、まだまだ良好な音がする。保存法にほんの少し気を付ければ、たぶんCDもLPも、人間の寿命くらゐの年月はじゆうぶんもつだらう。つまり、現代人は、気が付けば一生の間まつたく同じ演奏を聴きつづけることが可能になつてゐたのである。

 技術の発展とメディアの普及が、狭い特定の空間で、ある限られた時間帯に、少人数にしか味はふことの出来なかつた音楽といふ芸術を、一気に解放したことは、もちろん賞讃に値することだ。だが、注意してほしい。CDをはじめとするメディアから聞えてくる音楽は、それを聴く側が意味づけをしない限りは、単なる音のリピートでしかない。

 ここに問題がある。繰返される完全に同一の演奏に、われわれは「感動する」と言ふ。しかし、本来の音楽は「繰返される完全に同一の演奏」など考へられないものだつた。だとするならば、繰返される音に心地よさのみを感じてゐるうちは、感動でさへもリピートしてゐるにすぎない。ややもすると条件反射の実験のやうな反応を、感動と勘違ひしてゐるだけなのかもしれない。ましてやポピュラー音楽は、モーツァルトなどのクラシック音楽にくらべて、はるかに強烈に人の感情の解放を志向するぶんだけ、陶酔を招き寄せやすい。

 だから、感動を新たにすることが必要になるのである。自分から積極的に「繰返される完全に同一の演奏」に、一回一回聴くごとに、なにがしかの新しさを見出す努力を、われわれは求められてゐるのである。これは、相手が芸術なのだからさうすべきであるといふお説教などではなく、メディアを通じて芸術を享受するといふ行為そのものが宿命的に背負つてゐる要請なのである。ここから逃げるわけにはゆかないのだ。観念するしかない。

 しかし、どうやつてそのやうな発見を試みればよいのか。それは、もちろん何でもいい。ある曲のある楽章のフレーズが、先行する楽章のある部分のフレーズを転調させたものだつたことを理解した、といふやうな作品の構成に関することでもよいし、また、今まで聞き漏らしてゐたある楽器の旋律の美しさに、ふと気付くといふやうなものでもいいだらう。だが、やはり、「われわれは何のために音楽を聴くのか」といふ根本的な問題に少しでも迫るやうな、もつと積極的な聴き方が試みられてもよいのではないかと私は思ふ。いつもそんな難しい聴き方をしてゐると肩も凝るが、たまにはさうしたことを考へながら音楽に耳を傾けることも必要だらう。特に諸君のやうな若い人たちには。

 そこで、最後に一つの提案を書いておきたい。ある具体的な作品を取り上げて、音楽に関する根本問題を考へるきつかけを提供しておくことにしよう。

 その作品とは、ジョン・ケージという二十世紀のアメリカの作曲家が作つた『四分三十三秒』といふ作品である。これはクラシック音楽に親しんでゐる人ならたいがい知つてゐる、しかし、かなり変つた作品だ。

 何が変つてゐるのかといふと、この作品の楽譜にはひとこと「TACET=休み」と書かれてゐるだけなのである。つまり、四分三十三秒の間、舞台上の演奏者は(文字通り)何もしない。何の楽器を手にしてゐようと、ゐまいと、何もせずに、ただぢつと四分三十三秒間が過ぎ去るのを待つだけなのである。すると、どういふことが起るか。演奏者をぢつと見つめる観客席から生じる音(通常の演奏会なら雑音として嫌はれる音)が、異様な鮮明さで会場に響き渡ることになる。小さな咳一つでも、会場中の注目を浴びるほどになるのだ。そんなところから、この作品はよく「偶然性の作品」と言はれる。偶然その場で生じた音(雑音をふくむ)が主役なのだといふわけだ。

 しかし、私が言ひたいのは、さうした偶然に耳を傾けろといふことではない。ちよつと考へれば分かるやうに、楽譜に「休み」としか書いてゐないのだから、この作品は何の楽器でも「演奏」できる。自分には弾けない楽器でも「演奏」できる(この作品は、一応、ピアノ曲といふことになつてはゐるが、今はさうした事情はどうでもいい)。といふことは、楽器がなくても構はないといふことである。なほかつ、いつでもどこでも「演奏」出来るといふことである。時計を見て、四分三十三秒間をきちんとカウントすれば、それがこの作品の「演奏」になる。大勢でやつてもいいし、もちろん、自分ひとりで「演奏」したつていい。人知れず、心の中でこつそりと「演奏」してもよい。

 四分と三十三秒なんて時間は、毎日の生活の中で、いつの間にか過ぎ去つてゐるといふ程度の長さだらう。ちよつとぼんやりしてゐたら、すぐに過ぎ去つてしまふ時間だ。ふつう、人は、その程度の時間ならすぐに取戻せると考へてゐる。だが、本当に取戻せるのだらうか。たとへ、過ぎ去つてしまつた時間のうちに、これといつたことをしてゐなかつたとしても、その時間が永久に失はれてしまつたことに違ひはないのである。過ぎ去つた時間の中にふくまれる瞬間や時刻は、もう二度ともとには戻らない。

 だから、今、試しにあなたが心の中でジョン・ケージの『四分三十三秒』を「演奏」したとしたら、その時間は、その前後の時間とは少し異なつた、特別な時間になる。「演奏」が終つてしまへば、その時間は、他の時間と同じやうに永遠に失はれてしまふけれど、でも、他の時間とはちよつと違つたといふことは、残る。のつぺりと連続する時間を、自分の意志で区切り、楔を打ち込み、意味のある時間に(あるいは他と異なる時間に)変へることが出来る。私は、『四分三十三秒』といふ作品の本当の意義は、このやうに、自分の意志で、いつでもどこでも、しかも易しく、人生といふ時の流れを再認識できるやうになつてゐるところにあると考へてゐる。

 『四分三十三秒』の「演奏」とは、同時に、その間に発生するあらゆる音に耳を澄ますことでもある。言ひ換えれば、「聴く」といふことだ。かういつた特殊な作品だけではなく、一般の音楽作品も同じやうに「聴く」ことが出来れば、たとへその音楽が、「繰返される完全に同一の演奏」によるものであつたとしても、われわれは何かしら新たな発見をおこなふことが出来るだらう。
コメントはお気軽にどうぞ。
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
う~ん
音楽も絵画もお芝居も全て、私は鑑賞する側です。
演奏される方、描かれる方、演じられる方達のエネルギーを僅かでも吸収したい
自分の栄養にじゃないけど、ゼロの自分に吹き込みたい
それが若ければ若いほど受け入れやすい
だから、若者には是非に触れてほしい世界ですよね。
感受性、創造性を豊にすることは、心のゆとりにも繋がる
そう思います。 視点が逸れていましたら削除下さい。
kao 2009/01/29(Thu)07:25:02 編集
Re:う~ん
こんばんは。
ん?
「う~ん」て、何を唸つていらつしやるのでせうか。^_^;

それはさておき、一応、教育業界に身を置く者としては、義務教育課程の子供達に言ひたいことや伝へたいことがヤマのやうにあります。
そこで、時々エッセイを書いて、発表してゐるんです。そして考へさせてゐます。
(あんまり評判よくないけれど。笑)

テストぢやないので、視点のぶれなんてものは気になさらずに。
それに、手ぶれ補正機能付ですから。^^
【2009/01/30 05:01】
少しずつ
こんばんは。
少しずつ遡りながら拝見していこうかと思い、何となくここで一息ついています。
この文章を読んで、気持ちが高ぶってしまいました。
ジョン・ケイジというと、現代音楽家としてのピアノの曲を何度か聴いたことがあるくらいでした。
そんな作品があるのですね。
・・・ここで長くなるのも申し訳ないので、メールしたいと思います(笑)
ご飯食べたらまた伺います。
さくら茶 2009/05/15(Fri)22:30:55 編集
Re:少しずつ
こんばんは。^^
このブログは開設してからまだ1年半なので、記事の数も少ないですし、写真の数も多くはありません。
結構、さつと見られる……かな?

ジョン・ケイジの「4分33秒」は、CDが出てゐるんですよ!
4分33秒間の無音が記録されえてゐるといふものです。をかしいでせう?
YouTubeでは「4分33秒」のライヴが見られるんですよ。^^

では、続きはメールにて。
【2009/05/16 04:48】
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
開設:07年12月05日
05 2017/06 07
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
19 20 21 23 24
25 26 27 28 29 30
支配人プロフィール
HN:
NOMi Koichi
年齢:
51
性別:
男性
誕生日:
1965/07/09
趣味:
写真、音楽、文学
自己紹介:
Koichi NOMi と申します
東京在住の写真好きです

女の子ポートレイトを中心に
街やらライブやら
色んなものを写して
表現して楽しんでゐます
皆さま
どうぞよろしくお願ひ致します
(*^▽^*)/

フランスの写真家
ギイ・ブルダンが大好きです
(Guy Bourdin, 1928-1991)
Guy Bourdin: A fetish for fashion
明快な細部と曖昧な物語性
大胆な構図と緻密な状況設定
そして色
どこをとつても素晴しい!

私も
どうせ写真を撮るなら
彼のやうな作品が撮りたいな
とは思ふのですが
ちよつと道のりは遠いかな
(苦笑)

このブログへのコメント
リンクは
すべてお気軽にどうぞ
特に写真と音楽の好きな方なら
大歓迎です
(*^▽^*)

文字表記は旧仮名

青文字は外部リンク

メールはこちら
ttn18gray@outlook.com

もうひとつのブログは
こちら

記事と画像の
無断複製・無断使用は
固くお断りします。
これまでの記事
アクセス解析